【辛さは分かりません】大震災を経験してない自分が今になって思うこと

今日は3月11日、4年前の今日にかの東日本大震災が起こりました。

今日で震災から4年も経ったかと思うと時の流れの早さを感じずにはいられない。そんなことを考えながら書いてます。

Twitterやニュースサイトを見ていたら、今年も変わらず「4年前の悲劇を忘れないために祈りましょう」「被災した方に応援を」というキャンペーンが行われている。震災の悲劇を忘れないため、より安全な国になってくれることを願うため、多くの人がみな何かしらの想いでこの運動に参加してくれているのは良いことだと思う。

震災の悲劇が実感できない

ただ、残念ながら震災の悲劇が実感できない。こう書くと炎上や煽りの類に見えるけど本音です。理由は単純で、自分が大震災を経験していないから

TVでも、被災者の声と行政の声のすれ違いが取り上げられてたりする。その後コメンテーターが「震災の被害者がどういう気持ちでいるか分かってるんですか?」と言うのが黄金パターンだ。それを見るたびに、

「そんなの分かるわけないじゃん。被災者じゃないんだから」と思ってしまう。

もちろん、youtubeの動画やTVニュースでリアルな映像は沢山見たので、地震という自然災害そのものの怖さは分かってるつもり。つもりというのは数値で表すと40%くらい。どれだけ動画を見ても実際に体験する恐怖は味わえないので、地震の恐怖は「目」と「耳」の2つくらいでしか分かってない。せいぜい五感のうちの二つだけ。

震災の悲劇って?

震災の悲劇とはなんだろうか。分けるとするなら二つあると思う。

一つは自然災害という恐怖。もう一つはそれによって引き起こされた被害者の苦悩

この両方を合わせて震災の悲劇というなら、「4年前の悲劇を忘れない」というのは僕にとっては残念ながら不可能だ。

何故なら「震災によって被災した人の苦悩」が分からないから。

自分は被災者じゃないので、それが「悲劇」だと実感できない。

当事者がどれほど苦しんで、どれほど辛い思いをしているのか分からない。

というのが正直な本音です。「忘れない」というより、そもそも「知らない」。

f:id:hagoromox:20150311143657j:plain

だからエールは送れない

だからなのか、「被災者の方にエールを」とか「亡くなった方に黙禱を」というのにどうも進まない。嫌いっていう気持ちは皆無だけど、嘘をついてるようで出来ない。

これがもし、僕が「震災で友人を亡くした」立場だったら話は逆になる。

多分、自分の手の届く範囲の復興活動に参加しているだろうし、誰に言われなくても黙禱や募金をしていると思う。同じように黙禱をしている人達にありがとうの気持ちが芽生えてるかと思う。

意識の違い

震災を上手く実感できないことが意識の違いにもなっている。

例えば、僕は震災の備え(懐中電灯や非常食の用意とか)を一切していない。

もちろん、震災当時は僕の住む神奈川にも揺れが来て、結構な恐怖を感じた。すぐさま地震の備えや情報収集・募金活動をした。

けどそれは当時の話で、2年も経てば僕の頭からあっさり風化していた。

「地震はいつどこで起きるか分からないから注意すべし」という考えと同時に

「まぁ、来ないし関係ないでしょ。来たらどうせ終わりだし。」とも考えてる。良くわからないどっちつかずの状態にいる。

こうしてブログに書いて頭の整理をすることで、多少意識は変わってはいるけど。

意識を持たない自分はどうすればいいの?

諦めではなく、「無理に考えるな」と思うようにしてる。まずは

「自分は被災者ではないので気持ちはわかりません」

という事実を受け入れることが大切だと思う。

次に、当事者になれないならどうするか。僕は「近づく」ようにしている。

被害に合った人の話を聞くとか、本を読むとか。体験ができないなら「追体験」をしてみる。そうやって近づく。

「あなたの気持ちはわかるよ!辛いけど頑張って!」とは絶対に言わない。

「体験したことのない自分には、あなたの辛さを理解することはできません。」

その前提を忘れないことが、被災者の気持ちを考える上で大切だと思う。

遺体―震災、津波の果てに

遺体―震災、津波の果てに

 

 

関連記事 です 良かったら読んでみてください