元陸上選手の為末大のブログが凄い。一字一句に、選手として、そして為末大という人間としての想いが書かれている。
全てを読み終えたわけではないけれど、最新記事の「競争と助け合い」に心打たれる。
競争の無い教育を受けた子供ほど助け合いを拒む
為末氏は以下の記事について言及しています。
反競争的な教育が助け合いを減らす? 大竹文雄の経済脳を鍛える 日本経済研究センター
比較的短く分かりやすく書かれているので興味があれば読んでみてください。
上の記事の要約(にしては長くなってしまったのはご勘弁)
私達は、誰かを蹴落としたり、手を抜くことのできない競争社会を嫌う。しかし、競争によって製品の質が上がったり、生産性が上がったりする。個人の視点によっては、競争は得にも損にもなる。
しかし、競争が完全に「努力」でどうにかなるということはなく、コネや景気など「運」の要素が現実として存在する。
そのような「どうしようもならない部分」については、困ったときに助け合うという互恵的な社会規範があれば解決できるかもしれない。
そのような社会規範を作る一番の方法は教育である。しかし、実際には反競争的な教育ほど助け合いの精神は薄まる。
これは、競争社会を味合わないことで、「人間の能力は平等である」という価値観を持ってしまうからである。
つまり、何かで劣っている人物がいたとすれば、それは「努力が足りない」ということであり、そんな人間を助けることはしないということになる。
この記事に対する、為末氏の体験談を交えた意見が胸に刺さる。
子どもの頃僕と同じだけ練習したのに全く足がはやくない子もいたし、適当にやっていてもめちゃくちゃ速い子もいた。同じように頭がいい子もいたし、身長が高い子も、力が強い子もいた。
それは小学生の頃だったからどう考えても努力で決まっているわけではなくて、能力、しかも先天性のもので決まっていたように思う。それはお互い一生懸命努力してみて、しかも比べてみたからはじめて明らかになることだった。
「個人の能力が努力だけで決まっていないということが、努力をしてみて分かった」
というのに実に納得してしまった。
競争を経験することで、競争社会に疑問を持てる
「努力だけではどうにもならないことがある」
というのは自分のスタンスでもあるのだけど、
こう言えるようになったのは自分が競争社会で努力したからなんだよな、と。
それは部活であったり、受験であったり、仕事であったり、皆なにかしらの競争を経験したからこそ分かるものだ。
だから、競争のない教育では、「競争社会は能力によって格差が出るから不平等だ」という意見すら出てこなくなる。
競争から目を背けても能力の優劣というのは現れてしまうものだが、それに対して「お前は努力が足りない」としか言えなくなってしまうのだ。
才能ってなんだろう?
みんなには個性がある。個性とは性格だけのことをいうのではなく、能力のこともいう。つまり能力がある人もいればない人もいる。
残念ながら現代の社会の価値観では特に目立った才能がない人もいると思う。というよりそういう人の方が大半ではないだろうか。
持って生まれた能力、才能についての言及。あえて付け加えるとすれば、
「何かしら優れている部分はあるかもしれないけど、世間で才能と呼ばれていない」
そんなものは少なくないんじゃないだろうか。
例えば、「人より辛いものが沢山食べられる」という僕の体質は「才能」とは呼ばれてない。何かを生み出す価値がないものは能力とは呼ばれないからだ。
もしも「世は大激辛時代!男達は激辛を求めて熱いバトルを繰り広げていた!」
みたいに激辛料理ブームな世界だったら才能と呼ばれてたんじゃないだろうか。
「才能」はひと括りにできるものではなくて、社会や時代環境によって変わるものだと思う。
「足が速い」「計算が速い」という特性を持っていたとしたら、それはきっと現代で才能と呼ばれるだろう。そういったものを持つ人は大切にしてほしい。
才能を持って生まれた人もいるしそうではない人もいる。いい環境もそうでない環境もある。だからこそ社会保障などでそれらを是正しお互いが助け合う必要があるのではないだろうか。私はたぶん相当に足の才能と環境に恵まれてきた。だから次の世代にそれを還元しようと思うようになった。もし全部自分の力で手に入れたものだったら、特に借りもないので返す必要もないと考えていたと思う。
為末氏ははっきり「自分は才能と環境に恵まれた」と述べている。
指導する立場にある人物が「努力が全てではない」と言うのは相当な覚悟が必要だろうけれど、大切なことだ。
「人は努力だけにあらず」ということを自覚することが、助け合いの一歩となるんじゃないだろうか。