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「不謹慎」は線引きできるものじゃない

考えたこと

原発「アーwwチーチwwwアーチーww 溶けてるんだ炉がwww」

世の中には数多くの不謹慎とされるネタで溢れています。いつものごとく「不謹慎だからやめろ」vs「不謹慎じゃない」の戦いが起こっている。もはや伝統芸能です。

昨日は以下の記事を読みました。

①不謹慎ネタに対する個人の対応は三者三様。

②全てをネタにしてしまうことは、他者から不謹慎だと叩かれたり、場合によっては障害や事件すらもネタに風化させてしまうので注意が必要。というところでしょうか。

どこからが不謹慎なのか

定義はないと思います。そもそも「ここからここまで」と線引きするのに違和感がある。

だって、不謹慎だと感じるのは他ならぬ自分でしょう。そんな自分と、自分とは違う他人の存在で成り立っているのが世の中なんですから。

「私はこれを不謹慎だと感じたから、お前もそう感じるはずだ」とは言えないでしょう。そう、不謹慎はみんなの心の中に・・・

自分にとって面白いものが、他の人からすれば不謹慎に見える

去年の今頃、とある作曲家を元にしたネタがネット上に溢れかえりましたね。編集されたMADもありましたが、不覚にも一番笑ったのが無編集の記者会見でした。

例えば、もしも僕が聴覚障害持ちだったら、多分一度も笑わなかったと思います。彼を元にしたゲームもあるみたいですが、それも「えぇ・・・」とドン引きするかもしれないです。(実際に体験したことが無いので、絶対とは言い切れませんが)

これは意識の違いにあると思います。僕が笑っていたのはあくまで「佐村○内」であって、別に「聴覚障害」とか「事件」とかいうワードには一切関心が無かった。

これがもし自分も聴覚障害という立場にあったら、嫌でもそのワードから目をそらすことは出来ません。佐村○内」に加え、「聴覚障害」、更には「聴覚障害である自分」というワードを重ねずにはいられない。だから笑えないんじゃないでしょうか。

誰にとっても不謹慎じゃないネタなんてない

本人はネタのつもりで書いたものを笑えない人達がいるというのはそういうことかと。 その人達が不謹慎だと感じるには、そうなるだけの理由がある。

不謹慎派と反不謹慎派の争いがしばしば起こるのは、そうした「当人の意識の違い」から起きているんじゃないかと。

「いやいや、桜が咲いた喜びをダジャレにしても怒られないでしょ?」

「先日事故で娘のサクラちゃんを亡くしたご家庭を知らないの?不謹慎ね」

 

不謹慎な経済学 (講談社BIZ)

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